1日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」に高須クリニックの高須克弥院長が出演した時に初めて知ったのだが、現在、全身ガンと闘っているのだという。
全くそれを感じさせない生き生きとした表情や発言。
その番組内で、小籔千豊が鼻に酸素チューブを入れ入院患者を演じている厚生労働省の「人生会議」の啓発ポスターが批判を浴び、同省が自治体への発送をやめた問題を特集した。
高須クリニックの高須克弥院長は、今回のポスターに対しての意見を語った。
その内容がこちら。
-------------------------
すばらしいですよ。なんで撤回したのか?厚生労働省、骨がないですよ
僕はがん患者だけど、みんな元気よく暮らすために、いずれは死ぬんだから、そういうことについてもがんの友達同志でも話し合うとすごく有意義なんです。わかってもいない人がえらそうに言うな。
家で死んだ人がいない人が多いんです。今、若い子たち、バラバラだから。家でおじいさん、おばあさん死んでいるの見ているから、みんな教育になっているんだけど、自分が死なないもんだと思っているの。いずれ絶対、死ぬんだから全員。すごく愚かだと思う
死ぬことを汚いもんだとか汚らわしいもんだと思って、死について語り合うのをすごく嫌がるの。平気で話せばいいの。全部生まれてくるときと死ぬときと同じですよ。入り口と出口だもん
-------------------------
最後の言葉で目から鱗が落ちた思いだ。
「産まれるのと死ぬのは同じ」
そうかもしれない。
始まりと終わりは同義語なのかもしれない。
終わりを悲観的に考えるのは「死」がなぜか多い。
それは、いつ死ぬかわからないという見えないものに対する恐怖なのかもしれない。
ビジュアルバンド「sophia」も街という名曲で
「見えないものに向かうとき 人は誰も孤独」
と歌っていた。
または、周りと比較するという人間の本質的な考えが産んだ産物なのかもしれない。
平均寿命なんていうものを知識として得ることによって、
平均寿命より生きれば「良」
平均寿命より短ければ「悪」
なんていうわけのわからない考えが頭のどこかに根付いているのかもしれない。
あとは、「死ぬときは病気で苦しみながら死ぬのはやだな」
という考えも心のどこかにあったりする。
こんな心のモヤモヤをクリアにしてくれた高須院長は素晴らしい。
当人が現在闘病中というのも説得力を増している。
ご自身の仕事でもある、美容整形外科というものも、施術により人に新しい生命を宿していると考えると、職業を通じて死に対しても常に考えているのかもしれない。
人は必ず死ぬという事実。
その昔、「死にカタログ」って面白い本があったっけ!
また読んでみよう!